تسجيل الدخول金曜の夕方。
昼の会議を終えたオフィスには、ようやく一息ついた空気が流れていた。 デスクを整えて帰り支度をしていると、朱里のスマホが軽く震える。 画面には短いメッセージ──。> 『会議終わった? このあと、少しだけ時間もらえる?』 差出人は、平田嵩。 たった一文なのに、胸の奥が少しだけ跳ねた。「少しだけ……って、どのくらいなんだろ」 独り言のように呟いて、朱里は深呼吸をした。 鏡代わりのパソコン画面に映る自分の顔を見て、慌ててリップを塗り直す。 職場を出ると、夕方の風が少し冷たくて、心のざわめきを落ち着かせるにはちょうどよかった。 ショッピングモーその日、部署の空気はどこか張りつめていた。嵩の転勤が“ほぼ確定”ではなく、“事実として共有されたあと”の、独特の静けさ。誰もが知っているのに、誰も正面から触れない──そんな薄い膜が、フロア全体を覆っていた。その膜を、ためらいなく破ったのが瑠奈だった。「嵩さんって、向こう行く気なんですよね?」昼休み前、給湯室から戻った直後。あまりに唐突で、あまりに率直な一言に、周囲の手が一斉に止まった。「……瑠奈」美鈴が低く名前を呼ぶ。制止のつもりだったのだろう。けれど瑠奈は、悪びれもしなかった。「だって、みんな気にしてるじゃないですか。行くのか、残るのか。本人だけが黙ってるの、変じゃないですか?」視線が、嵩に集まる。同情でも好奇心でもない。ただ、“答え”を待つ目。嵩は一瞬、言葉を探した。ここではまだ言えない。朱里にも、まだ──。「……正式な話は、これからだ」それだけ告げると、瑠奈は小さく首を傾げた。「じゃあ、朱里さんには?」空気が、音を立てて沈んだ。美鈴が一歩前に出る。「それは──」「まだだ」嵩が、静かに遮った。瑠奈は数秒、嵩を見つめてから、ふっと息を吐いた。「そっか。じゃあ聞かないです。でも──」彼女は少しだけ、声を落とした。
午後のオフィスは、いつも通りのはずだった。 キーボードの音。 電話の呼び出し音。 コピー機の低い唸り。 なのに──朱里には、全部が少しだけ遠かった。 (……何も言われてない) (誰にも、何も) それなのに。 自席に戻る途中、視線を感じる。 誰かが見ている、というより 誰もが、見ないようにしている感じ。 「中谷先輩」 声をかけてきたのは、瑠奈だった。 いつもより、ほんの少しだけ声量が抑えめ。 「この資料、確認お願いしてもいいですか?」 「……うん、いいよ」 受け取りながら、瑠奈の目を見る。 探るようでも、疑うようでもない。 でも、いつもより“距離を測る目”。 「ありがとうございます」 そう言って戻っていく背中が、妙に真っ直ぐだった。 (……勘のいい後輩って、怖い) 席に着くと、隣の部署の会話が耳に入る。 「平田さん、午後外出だっけ?」 「いや、今日はずっと社内のはず」 ─
会議室のドアが、静かに閉まった。 昼休み直前。 誰もいないはずの時間帯を、嵩が選んだ。 「……座ろうか」 そう言われて、朱里は頷く。 向かい合って座る距離が、やけに遠く感じた。 机の上には、何もない。 資料も、メモも、逃げ道も。 嵩は一度、息を整えるように胸を上下させた。 「昨日、話すって言ったこと」 「……うん」 声が震えなかったことに、朱里自身が驚いた。 嵩は目を逸らさない。 「転勤の話が、正式に来た」 ──きた。 頭では分かっていた言葉なのに、 実際に聞くと、音が違った。 「四月付けで」 「……場所は?」 聞けた。 逃げなかった。 「関西支社」 「ほぼ確定だ。最終確認だけ残ってる」 “ほぼ確定”。 それは、もう決まっているという意味だった。 沈黙が落ちる。 時計の針の音が、
部屋の電気をつけたまま、朱里はソファに座り込んだ。上着も脱がず、バッグだけ床に置く。(……聞くって、言っちゃった)自分で言った言葉なのに、胸がざわつく。スマホの画面には、嵩からの最後のメッセージ。《明日、全部話します。逃げないで、聞いてください》逃げない。簡単に言ったけれど、実際は“逃げ道が見えてしまう”夜が一番怖い。転勤。はっきり言われたわけじゃない。でも、分からないほど鈍くはない。(場所が変わる) (時間が変わる) (距離が変わる)そしてきっと──関係も。立ち上がって、キッチンで水を一杯飲む。喉を通る感覚だけが、現実に引き戻してくれる。(もし、行くって言われたら) (私は、どうするんだろう)“ついて行く”なんて、簡単に言えない。仕事も、生活も、積み上げてきたものがある。でも。“行かないで”も、言えない気がした。(……好きだから)その事実だけが、逃げ場を塞ぐ。スマホが震える。瑠奈でも嵩でもない。田中美鈴だった。《起きてる?》短い文なのに、すべて見抜かれている気がする。《起きてる》
木曜日の夕方。 定時を告げるチャイムが鳴っても、 朱里はすぐに席を立てなかった。 (……今日は、何も言われてない) (でも、言われないまま終わる気がしない) そんな予感だけが、胸の奥に居座っている。 パソコンを閉じ、立ち上がった瞬間。 「中谷さん」 呼ばれて、身体が強張る。 振り向くと、嵩が立っていた。 いつもより少しだけ距離が近い。 「……帰り、歩ける?」 「はい」 即答してしまった自分に、少し驚く。 エレベーターを降り、会社を出る。 夜に切り替わりきらない空が、妙に落ち着かない。 二人は、自然と並んで歩き出した。 話題は、他愛もないものだった。 「今日、会議長かったね」 「ですね……集中力、後半危なかったです」 「俺も」 笑う。 でも、どちらも“本題”を避けているのが分かる。 歩幅は揃っているのに、心は一歩ずれている。 しばらくして、嵩が足を止めた。
水曜日の昼。社内はいつも通りのはずなのに、朱里は、嵩の背中がやけに遠く感じていた。(……何か、あった)理由は分からない。でも、昨日までの“静かな安心”が、薄く剥がれ落ちた感覚。嵩はいつも通り仕事をしている。表情も、声も、態度も。だからこそ──違和感だけが、残る。「朱里」昼休み、背後から声をかけられた。振り向くと、美鈴が立っていた。トレーにコーヒーだけを乗せた、いつもの無表情。「……美鈴、どうしたの?」 「席、空いてる?」朱里は頷き、二人で窓際の席に座る。しばらく、何も言わない。それが美鈴の“前置き”だと、朱里は知っている。「ね」 「うん?」 「平田くん、昨日から少しおかしい」朱里の指が、紙コップを握る。「……やっぱり、そう見える?」 「見える。かなり」断定。迷いのない声。「理由は?」 「分からない。でも……」 美鈴は一拍置いて、続けた。 「“決断を一人で抱えてる顔”してる」朱里は、







